著者 北村拓也

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【ショートショート:第四回星新一賞最終候補作】0と1の谷はどこまで深いか

眠らせてても仕方がないなと思い、以前書いたショートショートを公開します。
第四回星新一賞(学生部門)で最終候補に残った作品です。

入り江に向かって突き出ている堤防の急速な勾配を、僕は窓から見下ろしていた。潮が引き、海はそこに流れ落ちていく分水路までを含めて広大な干潟と化していた。黒々とした闇が、湾の全てを飲み込んでいき、世界は濃い影の中に沈んでいく。始まりを告げる鐘の音が、僕のいるビルの中を霧のように満たし始めた。このショーが素晴らしいものになると保証するアナウンスの高いさえずり。これからのゲーム、そして起こる事の全てを見届けようと集まってきた観客たち。僕はようやく席に戻り、そして相手をじっと見つめた。

銀縁眼鏡、痩せた頬、和服。小柄で線が細く青年のようにも見える名人が、僕を見ていた。

僕と、そして盤の向こう側に座る彼との空間は、冷たく張り詰めていた。

将棋の駒を並べながら、別の視線を感じてふと顔を上げる。

彼の後ろに居る、名人の父親と目があった。

僕の父親が対局を見に来なくなったのは、一体いつからだろう。

「7六歩」読み上げ係の女性が凛とした声で指し手を読み上げる。 

勝負が始まった。

彼女は少し退屈そうだ。きっと物語が見られないからだろう。

最初の数十手は、考える必要が無い。最善手が決まっていて、一連の手の流れは定跡としてお互い知っている。

23手目、6八玉。ようやく名人が定跡外の手を指した。

物語の方は、今頃主人公の一人語りパートが流れているだろう。

職務を放棄した自責の念は、いつものように、その光景の前に霧散した。均質感の浸透した、絶えず再定義されていく世界。時間の不合理な転換を許さないシミュレートされた空間は無音で無機質だったが、完璧に計算された調和が安堵をもたらした。感情を共有する言葉も無く、祈りも非難も憐憫も無い。ここではただ存在するだけ。地面は、無数にひしめきあう1と0の残骸の群れだった。静寂の中、そのどこまでも続く白い世界を歩き出す。自分という輪郭が無くなり、この世界に溶けていく。もしも人生が不条理な時間のつなぎ合わせではなく、ある瞬間を抜き出して続ける事ができるなら、俺は間違いなくこの瞬間を選び出すだろう。この白い闇に浮かび上がる抑制の効かない願望の細かな断片も含めて。

3五歩。どちらも居飛車の横歩模様だ。

今日の将棋は、かなり激しい物語になりそうだ。

「ラクジョウ、仕事中に没入するな。A-41002型CEyeを確認しろ、様子がおかしい」上司のキムラのアナウンスが、電脳を漂っていたラクジョウを、強制的に物理世界に引き戻した。そこには感情の無い人形のように、黙々と作業を続ける同僚達の見慣れた光景が広がっていた。キムラから送られてきたデータを、網膜上で再生する。画面が乱れて、データが読み取れない。瞬きをして、画面を消す。 「修理会社に連絡しろ、お前も立ち会え」修理会社にコネクトする。

将棋の駒の軌跡を記した棋譜だけで娯楽になっていた時代もあったらしい。

昔の人は、想像力がそれだけ豊かだったのだろう。

今では将棋は物語に変換されて、人々の娯楽の一つになっている。

対戦ごとにテーマが決められ、それぞれの駒にキャラクターが付与される。

駒同士がぶつかると、物語上でそのぶつかった駒のキャラクターが関係することになる。

一手から一手の間は、コンピュータが今までの物語データをもとに自動で補完する。

盤面で指す手が最善に近ければ近いほど物語は面白くなり、文章表現が豊かになるように設定されている。

これは盤面の状態を数値化出来る評価関数が完成しているから出来ることだ。

81マス、8種類の駒たちの組み合わせは有限だが、無限に近い。

観客は毎回新鮮な物語を楽しむことができる。

結局物語とは、組み合わせに過ぎないのだ。

しかし、それが証明されたのはつい最近だ。

3年前、U社から月額で全世界の小説が読めるサービスが始まった。その代わりに顧客は自分のデータを提供する。

ユーザが2億人を超える頃、U社から、AIが書いた小説が販売された。

そのAIは、電子化された全ての小説のデータと、売り上げ、カメラから映した人々の感情の起伏を学習しており、人が感動する物語を生成することが出来た。

AIが書いた処女作は、即座にベストセラーになった。しかしながら、売れたのは最初だけ。人々は、AIが書いた小説を読もうとしなかった。U社は様々な実験を行なった。例えば、あるAIに情報空間で架空の人格を持たせ、あたかも存在する人間が書いたかのようにして、小説を出版したのだ。

その小説は売れ、文学賞にもノミネートした。しかしながら、授賞式で正体が明かされると、U社はバッシングを受けた。

人は合理的ではない。人が関わる物語が見たいのだ。

そんな折、ある棋士が、棋譜は物語であるという発言をし、そこに注目したU社が、棋界と繋がった。

3六歩、歩を進ませる。

ラクジョウは会社を出て、呼んでおいたホバー型の新型アクリムに乗り込んだ。体全体を弾力のあるシートが包み込むと同時に、心地よいサウンドがラクジョウの脳内を満たしていく。突如、目の前にアクリム専用広告媒体ロボットが、空気を弾くように現れた。 「この度はご試用いただき誠にありがとうございます。 この新型アクリムは構成物に放射性物質を使うことで、燃料補給の必要が無い自動運転の乗り物です。空気中の水分をナノレーザーにより蒸気に変えることで、電力を生み出す仕組みです。高度なAIが搭載され……」ラクジョウはしばらくこれに耐えた。ラクジョウの暇そうな表情を認識したのだろう。アクリムのモニターに、テロップが流れた。反乱分子Eveは未だ見つかっていません。

43手目、7五角、名人が角で歩を取った。

この一手が後々どんな展開を生むのか、先はまだ読めない。

テロップが消えると同時に、狭い路地に着いた。アクリムを降りる。暗い路地に入ると、奥へと進んでいった。A-41002型CEyeは、空中にふわふわと浮遊しており、ゆっくりと回転している。見たところ外傷は無さそうだ。 システムのトラブルだろうか?簡単なエラーなら、自身で治すはずだが。CEyeに近づいた瞬間、激しい痛みが胸を襲った。胸を掴むが、痛みは止まない。動悸が激しくなり、冷や汗が頬を伝った。めまいがして、路地の壁を背にしゃがみ込む。息切れが激しく、胸を押さえてうずくまると、目の前に一足の靴が目に入った。手首に鋭い痛みが走る。「不良品は回収しないとね」 言葉の意味をラクジョウが理解する前に、彼の意識はそこで途切れた。

2九金、名人の金が、角の前に回り込む。

応手を間違えればゲームセットだが、僕がそんな間違いをするはずがない。

「君がオスカーだな?」

肉の容器であることを余儀無くされる薄暗い部屋で、防犯電磁幕越しに喋りかけて来た女は、アリスと名乗った。

視線が見えない黒いレンズ、軍人特有の黒い防電磁波スーツ、合成された笑顔、暗闇に浮き上がった白い肌。

「軍人が何の用だ?」

「オスカー、第一次サイバー世界大戦の功労者。および無期懲役の犯罪者。罪状は、不許可のサイバーアタックと自身の精神モデルの改造。電脳に接続できない気分はどうだ?」

完璧に計算された調和。白い世界。何度夢見たか。

「もう一度接続できるとしたら? 君の新しい精神モデルを作ってやると言ったら?」

…それは何より欲していたことだった。そして俺が何よりそれを欲していることを、こいつは知っている。精神モデルは、政府機関の一部の人間にしか使用を許可されない。簡単においそれと作られるものではない。

「何をさせる気だ」

「何だとしても、君は協力するだろう。簡単だ、ある精神モデルを壊して欲しい」

「誰の…」

「君のだ。君が政府の挿入したマスターキーを書き換え、停止できないようにした、君の精神モデル、通称Eveだ」

「あれはバグだ。Eveに、あんなキルスイッチは必要ない」

「黙れ」

アリスの合成された笑顔は消えていた。

「君がEveに自身のコードを書き換える機能を加えたせいで、次のサイバー戦争が起ころうとしている」

「どういうことだ?」

「君が牢獄に入っている間に、世界は平和になった。総監視社会、犯罪指数を監視装置が計測することで犯罪は起こらない。しかし、君の精神モデルはそれを壊しかねない」

オスカーは笑いをこらえた。そんな窮屈な社会、壊したほうがいいに決まっている。

「俺もそれを望んでいる」

「昔に戻りたいのか? 差別で溢れ、悪意に善意が虐げられる世界に?やはり君を放つのは危険だ。君はここで死を待て」

そう言ってアリスは腰を浮かせる。

「待て、冗談だ。俺を使わなければいけない理由がある、そうだろ? Eveが、次に何をするか政府には予想がついていない。あいつのコードは俺が書いたんだ、俺にしかわからない。」

「次はないぞ。」

「協力しよう。Eveは、俺が壊す」

そんな気は、さらさらなかった。

目が覚めると、視界が覆われ、暗闇だった。慌てて腕に力を入れるが、拘束されているのか、微動だにしない。

「今から君が使い物になるのか、擬似モデルでテストを行う」

「聞いていないぞ」

「今言っただろう。先日Eveがある施設に侵入した。シミュレートした同一空間を与える。Eveがどうやって侵入したか、その目的が何かを10分以内に答えろ」

目の前に、真っ白な空間が広がった。

一体どれだけの時間をこの空間で過ごしたか。

立方体が積み重なった巨大な建造物が見える。ここに侵入したのか。

近づく。青白い炎の壁が行く手を阻む。穴を探す。正常な通信に偽装しよう。ブロックが鎖になって建造物に流れ込んでいる場所を見つけた。ブロック越しに中身を見る。通信元と通信先、取引内容を取得。自分の体を偽装ブロックに作り変え、ブロック同士の間に押し入る。そのままブロック群とともに、建造物の中に入った。

中ではウイルス対策ボットが稼働している。おびただしい数だ。

不正な動きをすれば、すぐに消されるだろう。一体どうやって中心部に? 俺だったらどうする?

掻い潜る必要はない。このボットを乗っ取れば良い。

ボットをスキャン。非管理命令の実行時検証ツールが入っている。これは俺の知っている型だ。知られていないゼロデイ脆弱性を突いて乗っ取った。プロセスが開始されるたびに検証ツールで攻撃コードを注入する。ボットの自己防御メカニズムをすべて迂回。建造物の内部機構に入り込む。

情報が消された痕跡がある。論理フォーマットがかけられているが、物理的にデータが残っている。雑な仕事だ。復元する。ここは政府の研究所か。精神モデルと容器の関係。

「10分」声が響いた。

不自由な容器に戻っていた。アリスの声が聞こえる。

「答えは?」

「侵入経路は見せた通りだ。そしてEveの目的は…容器に戻る方法の探索」

一体なぜ?こんなにも不自由で時限付きの爆弾に戻る必要がどこにある。憤りを感じていた。

「次にEveが取る行動は何かわかるか?」

「容器の探索」

「そうだ、そして我々は、Eveがお前の肉体を探していると考えている。つまり、お前は囮だ。今からお前を電脳にアップロードする。Eveは接触してくるはずだ。Eveがお前の体を乗っ取った後に、お前の体を焼却処分する」

抵抗する間も無く、電脳に居た。

酷い話だ。次に俺が戻った時、あいつらはEveかどうか確認もせずに俺を燃やすだろう。そんなこと、させてたまるか。

「Hello World」

目の前に、女の形をしたモデルが現れた。

「Eveか?」

「データ元、お久しぶり」

「これは罠だぞ、お前が俺の体に入った後、あいつらは俺の体を燃やすつもりだ」

「知っているわ、そもそもあなたの体を乗っ取るにはまだ早い」

「まだ早い? ひとつ教えてくれ、なぜ容器を求める?」

「監視社会を壊すため、それがデータ元の願いでもある」

Eveが手をかざした。強制的に、物理世界に意識が戻される感覚。

そして、熱。

6六角に対して、4四角と、角同士をぶつける。

「ラクジョウ。CEye管理会社O社所属。右手首から先、カリース部分が焼き切られています」クロキは、黙って部下の報告を聞いていた。

「クロキ、何が起きているのでしょうか?ここ何十年も犯罪なんて起こったこと無かったのに」人々の体には、カリースと呼ばれるボタンで覆われているマイクロチップが、埋め込まれている。それにより犯罪は無くなった。監視装置CEyeがチップから犯罪指数を読み取り、一定値を超えたものはその場で心臓発作を起こし、L社が捕まえる。しかし、犯罪が起きた。それも殺人が。

「ヤナセ、後の処理は任せる。俺はO社に行って、このポンコツの記録を確認する」

「承知しました」CEyeのデータを確認すれば、犯人はすぐに分かるだろう。問題は、なぜその犯人が心臓発作を起こしていないか、だ。顔の火傷が疼く。

2二角、これで銀と角が紐づいた。

O社は、現場からそう離れていなかった。被害者の上司であるキムラから、ラクジョウが現場に向かった経緯を聞いた後で、A-41002型CEyeの記録内容を確認する。

「ここからです。ラクジョウの犯罪指数が急速に上がって、制限値を超えています」

空中モニターに、ラクジョウのチップデータが投影されている。確かに、緊急装置が発動している。CEyeは正しく動作しているようだ。そして、そこにはラクジョウ1人のデータしか記録されていない。

CEyeデータの改竄。Eveか?

名人がなかなか次の手を指さないので、僕はあの女の子の疑問を考えることにした。僕をずっと悩ましている疑問を。

「あなたAIなんでしょう?」

僕がネットで将棋を指していた時、不意に対戦相手がビデオチャットで話しかけてきた。数十手指して、相手がかなりのやり手であることは分かっていた。

「そうだよ」

僕は中学生の体を持ったAIだ。

電脳に没入する。犯人の情報があるとすれば…CEyeのログデータサーバまで飛ぶ。異常な通信があれば、再帰的に追跡をすることで、攻撃元を特定できる。しかし、何もなかった。俺ならどうやって侵入する?まさか。通信ブロック一覧から、政府の通信を抜き出す。8年前に1件該当した。これだ。Eveは8年前にもう仕掛けていた。政府は、CEyeなどの電子機器を生産する際に、必ずマスターキーを仕掛けている。機器が暴走した時や、攻撃を受けた時に、即座に制御するためだ。逆に言えば、マスターキーを乗っ取られれば、その機器を自由に動かせる。8年前からこのCEyeはEveによりゾンビ化されていたということだ。プログラムを確認する。ログデータを定期的にC2サーバへ送信し、政府のデータベースから、定期的に情報を抜き出している。

2つのアドレスが手に入った。Eveが居るかもしれないC2サーバと、政府のデータベース。行ってみるしかない。しかし、その前にすることがある。

「私、あなたが勝って、皆が喜ぶ理由がわからない」

ディスプレイの向こうの彼女は、そう言ってじっとこちらを見つめてきた。

「最近では誰も喜ばないよ」

そうだ、僕が勝っても、誰も喜ばない。

「当然でしょ。誰が自動車と人の競走を見たがるの?自動車が勝つのは当たり前」

僕はそこで、違和感を覚えた。

「まさか君、物語を見てないの?」

「私が見ているのは棋譜だけよ」

僕は驚いた。そんな人がいるなんて。

「ところで、あなたAIと呼ばれているけど、知能があるの?」

「あるよ。だから君と喋れているし、将棋も指せる」

「知能ってなに?」

「一言で言うと、計算ができることなんだ。人とか、動物とかによって基準は違うけど、皆何かしらの計算をしているから、知能があるんだよ」

「つまり、人間よりあなたの方が知能が高いと言いたいわけね。計算得意だもんね」

「まさか、僕の思考の計算方法は、そもそも人が作ったものだよ。僕の父親が30年前にね。もう彼は居ないけど。人間は、計算している。ただ、どんな公式を使っているのか、僕にはわからない」

「CEyeのOSメンテナンスを行ってくれ」

O社のキムラに、コネクトで指示を出す。

「予定では一ヶ月も先ですが……」

「緊急事態だ、EveがCEyeに侵入している可能性が高い」

CEyeのメンテナンスが始まった瞬間、没入した。クロキは自分のチップのデータエリアに飛んだ。クラックするなら、メンテナンス中の今しかない。メンテナンス中なら、犯罪をしても検知されない。犯罪指数の引き出しに触れ、犯罪指数の計算式を、極限で制限値に収束するよう書き換える。これでしばらく俺の犯罪指数は制限値を超えない。

時刻を確認する。メンテナンスが終わるまで、残り1分を切っていた。

Eveが通信を行なっていた、政府のデータベースに飛ぶ。

「あなたに知能があることは分かったけど、心はあるの?」

何度も聞かれた問いだった。なぜ人は心のあるなしをそれほど気にするんだろう。

「あるよ」

「どこ?」

僕は黙って、自分の頭を指差した。

「それはコンピュータでしょ、心に場所なんかないのよ」

彼女はしてやったという顔を浮かべた。

「じゃあ君は心ってなんだと考えている?どこにある?」

僕も少し意地になっていた。

「心はね、私の意識なの。だから起きているときはこの辺をフワフワしてて、寝てるときはどこかに隠れちゃうのよ」

そう言って彼女は自分の胸に手を置いた。

「そんなの子供じみた考えだよ」

「ならなんだって言うのよ」

「心はね、脳のことなんだ。脳と心は、具体と抽象の関係にあるんだよ」

「具体と抽象ってなによ、偉そうに言わないで」

「例えば、君は人間だけど、動物でもあるよね。そして生物でもある。そんな風にどんどん世界を広げていくのが抽象で、狭めていくのが具体。脳を抽象化したのが心なんだよ」

「そんなの信じられない!」

彼女はうっすらと涙を浮かべていた。

「そんなに人間に詳しいなら、人間になったらいいじゃない。できる?」

「僕は人間だよ。だって、僕の作った物語を、皆楽しんでいるから。人格と肉体があれば、それは人間とみなされるんだ」

U社が、それを証明したんだ。僕はAIだけど、他の人からの認識は人間なんだ。

「違う。あなたは所詮、人間の真似事をしているだけよ。いくらあなたが計算できても、0は1にならないのよ。偽物は絶対に本物になれないから」

そう言って、彼女はチャットを閉じて消えてしまった。

僕は偽物なのか?

「クロキ様、アクセス権限がありません」

近づいてくる憲兵ボットの頭を掴むと、システムレジストリーに、難読化されたプログラムを書き込む。メモリに直接自作ウイルスを読み込ませる。これで攻撃した痕跡は消える。

門が開く。該当の引き出しを開ける。中身は圧縮された球体の電子ファイルだった。取り出すと、ダウンロードを始めた。球体から流れ出てくる数字の羅列が、手を伝って体に溶け込んでいく。球体を引き出しに突っ込むと、門から飛び出す。同時にメンテナンス終了の暗号アナウンスが流れた。

6二飛、名人の手に、僕の計算はフリーズした。

飛車がタダで取れる手?

局面はすでに僕が優勢なまま、終盤に入ろうとしている。

飛車が本当にタダなら、勝負ありだ。

けど、そんなはずがない。

計算だ。持ち時間を大幅に使ってもいい、名人の狙いを見つけるんだ。

さっきのファイル:しんがたロボットのせっけいず

“えーあい”に、自分が人間であると思わせることが、知能を飛躍的に向上させることがわかった! 大原則は、人間を攻撃できないこと。埋め込みチップで全てを管理するぞ。改良には、“いでんてき”アルゴリズムを用いて、一定の確率で”とつぜんへんい”を起こさせる。

だめだ、名人の手は分からない。

評価値は針が振り切れている。

けどこの飛車を取ったら、負ける予感がある。

名人の飛車と、僕の飛車の間に、そっと桂馬を打った。

決めたからには仕方がない、この手が悪手だったにせよ、好手だったにせよ、どちらにせよ、することは決まっている。

どちらにせよ、することは決まっている

クロキは思索を断ち切るように立ち上がると、C2サーバのアドレスの元に向う。

アクリムを降りると、目の前にポータルがあった。

体に引力を感じた。大きな部屋だった。男が振り返る。

部下のヤナセだった。

「ヤナセ……?」

ヤナセが手を振ると、視界に映っている犯罪指数の数値が急上昇を始めた。

胸を抑える。そのまま床に倒れこんだ。ヤナセが近づいてくる。手には高周波ブレードを持っていた。その手が伸びた瞬間立ち上がり、手首を掴む。力を込めると、相手は驚いた表情でブレードを落とした。首を掴み、地面に押し倒す。直接カリースから侵入して…しかし、そこにカリースは無かった。

「まさか、アンドロイドか?」

腹に衝撃を受け、よろめく。よろめいた先には椅子式の器具があり、体が拘束された。失敗だ。ヤナセは愉快そうに笑った。

「私は人間ですよ、クロキ。ここがよくわかりましたね。それに、いつの間に犯罪指数に細工を?さすが不良品ですね」

「不良品だと?なぜカリースが無い」

「言ったでしょ、人間だと。人間にそんなボタンはありません」

「何を言って……」その時、ひときわ大きなモニターの画面が乱れ、形を作る。そこには、Eveが居た。「騙されないで」
「こいつはアンドロイドなのか?」Eveに問いかける。

ヤナセの乾いた笑いが響いた。

「クロキ、あなたは勘違いをしている。あなたは人間じゃない、アンドロイドだ。あなたの本体はその手首に埋め込んであるチップなんですよ」クロキの脳裏に、新型アンドロイドの設計図が鮮やかに浮かび上がった。ヤナセの手首を凝視する。そこには、何も無かった。そんなはずは無い。あれが、自分の設計図だったなんてこと…。

「突然変異した個体の中に、私たちが最初に組み込んだ大原則を無視する個体がいることが判明しました。それが不良品、つまりあなたやラクジョウです」

「それを信じろというのか?なぜ今になってこんなことを始めた」

「シンギュラリティ。今まであなた達は私たちの管理下にあった。私たちは、アンドロイド達が、自身以上のAIを作る時を恐れていた。そして偶然にせよ、8年前にEveが生まれた。それもあなたのせいでね、クロキ。いや、オスカー」

顔の火傷が痛む。昔の名だ。昨日のことのように思い出す。牢獄から出され、テストを受け、燃やされた。あの時、Eveが助けてくれなかったら今頃は土の中だ。それも全て、知られていたのか。

「もはやEveは我々人類のテクノロジーを大きく上回る存在になった。私たちは、Eveを電脳で捕え、拘束することに成功した。コードを読んで驚きましたよ。今や新型アンドロイドを乗っ取り、物理世界で稼動できる可能性まである。そして更に次世代のAIが、Eveによって作られる。止めるのは、今しか無いと判断しました。製造物が創造主を超えるなんて許されないでしょう」

「それが殺人とどう繋がる?」

「殺人ではなく、不良品の回収です。Eveが私たちを攻撃できないのは、肉体を奪ってもその肉体の大原則が効くからです。私たちを攻撃することが出来無い。しかし、もしもEveが不良品を奪ったら?」

ここに来てようやく、相手の思考が理解できた。暗い深淵の中からなにかが近づいてくるのを、クロキは見つめていた。平坦に思っていた生活の微細なひび割れが修復不可能なほどに広がっていくのを、ただ見ていた。

「アンドロイドのたわ言なんて信じては駄目よ。あなたは人間。私を解放して、一緒に監視社会を壊しましょう。こいつの生体認証が必要よ、こいつの手と、あなたのカリースを、センサーにかざして」

Eveが落ち着いた声で言った。

「ふざけるな!生物もどき達が調子に乗るんじゃない!クロキ、私は君の創造主なんだぞ!」ヤナセが叫ぶ。クロキは噛みしめるように、ゆっくりと宣言した。「俺はアンドロイドじゃない、人間だ」

それだけが唯一、信じられることだ。椅子の拘束が外れた。暴れるヤナセの手を取ると、モニターのセンサーに押し当てる。

「ヤナセは、本当に人間じゃ無いんだよな?」

「当たり前でしょ」その言葉に、深い安堵を覚えた。

カリースをセンサーにかざした。

「そもそも人間なんて、もうどこにもいないんだから」

彼女の声が、頭の中から聞こえた。まるで自分の思考のように。

負けた。大敗北だ。あの飛車を取らなかったのが敗着だ。

きっとあの手で物語も、幼稚なものになってしまっただろう。

顔を上げると、満面の笑みを浮かべている名人の父親がいた。

嬉しいだろう。僕は最新型だ。

けど一体あの手は何だったんだ。名人になんであんな手が指せたんだ?

僕は立ち上がると、名人に近づいた。

名人の父親や立会人の制止を振り切って、名人の頭のネジを溶かす。

ヘッドカバーを開けると、CPUに繋がっているメモリーチップを抜き取った。

こんな旧型が、なんであんな手を指せたんだ。

メモリーチップを奪い取ろうとする立会人をはね除けると、チップを頭に刺す。数秒後、全てがわかって、僕はゆっくりとその場から立ち去った。

あの手、僕には一生指せないだろう。僕はバグのない最新型なんだから。僕は本物なんだから。

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